「ゆっくり茶番劇」は「東方の入口」か
2021年5月30日 動画 コメント (2)先日、あるツイートがタイムラインで目に入った。
その内容を簡単に説明すると、「まず二次創作(ゆっくり茶番劇)をきっかけに東方を知ってもらい、後から深い東方の世界に入ってきてもらおう」というもの。
これについて、実際にゆっくり茶番劇が東方の入口として機能しているかを考えてみたところ、
まず、以前コミュニティで実施したアンケートによると、ゆっくり茶番劇の視聴者の50%以上はゆっくり茶番劇を始めたとしたYouTubeの作品でしか東方に触れていないことが示唆された。(回答者は約180人程度なのでこれが全てではないが)
【追記】
先日、再確認のため同じアンケートをもう一度行ったが、その際に大手動画投稿者の方にそのアンケートを共有していただき、2000以上の票を得ることができた。
その結果、「東方はゆっくり茶番劇でしか見ていない」「茶番劇以外だと幻想万華鏡くらいしか見ない」「あまり見ない」の合計が50%を超えた。
(合計票数が1000を超えたあたりから割合はほぼ変わっていなかったため、この割合はほぼ正しいと見て良い)
つまり彼らの半分以上は「ゆっくり茶番劇」をあくまで「ゆっくり茶番劇」としか見ておらず、東方に興味を持たないまま茶番劇を見ていることになる。
この理由については調査が必要(というより彼らも無自覚にそうしている可能性が高いため調査は極めて困難)だが、動画の内容を考慮すると、「東方ならではの面白さが少なく、どんなキャラでも成り立つようなありきたりな内容であるため、作品を『東方』として見ることができないから」ではないかと推測できる。
実際ゆっくり茶番劇は原作の要素をまるっきり白紙にした恋愛茶番、日常茶番などが一つの主流なジャンルになっており、検索結果のうちはるか氏の立ち絵を使用した茶番劇の半分以上は恋愛ジャンルとなっている。
また、主人公や色変えオリキャラばかりが目立つ「チート系」と呼ばれるものも主流なジャンルであるが、これも既存の東方キャラは一蹴されてしまい活躍の場面が少ないため、彼らにキャラクターの特徴が伝わっていないとも考えられる。
またもう一つの原因として、タイトルに「東方」の文字がないことも挙げられるだろう。実際ゆっくり茶番劇は「ゆっくり茶番劇」というジャンルで浸透しており、「東方茶番劇」などと呼称されることはほぼない。動画を検索しても、タイトルに「東方」と書かれているのは、シリーズ名が原作風に「東方〇〇〇」(「東方+漢字三文字」)になっているもののみで、それ以外に「東方」と書かれているものは本当にごく少数である。
つまり、「ゆっくり茶番劇」はあくまで「ゆっくり茶番劇の入口」でしかなく、「東方の入口」としてはあまり役割を果たせていないことがわかる。
また、「ゆっくり茶番劇は同人誌の代替物、同人誌の動画版である」という主張も目にしたので、これに関しても考えてみた。
私のところに以前、「ゆっくり茶番をきっかけにして東方を知ったが、原作をやったりして東方に詳しくなったらゆっくり茶番が楽しめなくなり、見るのをやめてしまった」「ゆっくり茶番をきっかけにして東方を知ったが、他のいろんな作品を見ると、キャラクターイメージが動画で見たものとかけ離れすぎていてショックを受けた」というコメントが寄せられていた。
ゆっくり茶番劇が「同人誌の代替物」として機能しているのであれば、このような感想が出ることはない。
また、登録者20万人規模のとある方の調査によると、「ゆっくり茶番劇は東方に詳しい人ほど違和感が強く、楽しみづらい」ことも判明している。
東方は原作未プレイユーザーの割合が多いことでも知られ、二次創作を中心に発展していったコンテンツであることは言うまでもないため、当然「楽しめない」と答えたユーザーも、二次創作を嗜んでいるはずである(そもそも原作しかプレイしないのならアンケートを目にするはずもない)。
これらを考慮すると、ゆっくり茶番劇は、他の東方二次創作(同人誌や手書き劇場など)の内容と比べても特に異質なものであると言わざるを得ないだろう。
理由については、単に動画の絵面などの面も考慮したが、同じような構図(立ち絵+ウィンドウ+ボイス)という構図を持つ東方キャノンボールや東方LWはダウンロード数が7桁を超えるほど浸透しているため、動画の絵面が原因とは考えづらく、また「ボイスが嫌い」という可能性も考えたが、東方人気投票でのアンケート結果では、東方を知ったきっかけというテーマに対して「YouTubeなどの動画サイト」「ニコニコ動画」「2ちゃんねるをはじめとした掲示板」の合計が50%を超えているため、東方が浸透した一つのきっかけとも言えるゆっくり及びそれに使われる機会音声が原因とは考えにくい。
つまり、彼らがゆっくり茶番劇に迎合できない理由はその内容にあると言ってよいだろう。
(これは個人的な経験というか観測だが、実際多くのゆっくり茶番劇のように原作における要素やキャラクターの属性、特徴を全て白紙にしている同人誌は確かにほとんど見たことがない)
現状ゆっくり茶番劇は「東方を好きになるきっかけにはなりにくく、逆に東方に興味を持った人は徐々に違和感を感じて離れてしまう」ものであると言えるのではないだろうか。
(時期でフィルターをかけて検索した際にわかるここ数年のゆっくり茶番劇の再生数の低下もこれを裏付けている)
東方は数あるコンテンツの中でも特に二次創作に関して寛容ということで有名だが、そもそもZUN氏がこれだけ二次創作を自由にしたことに対して「東方は同人コンテンツであるため原作だけではコンテンツを展開しにくく、二次創作を第2の宣伝手段とした」と理由付けをしている。
(参照:https://touhougarakuta.com/index_interview/zun_long_interview/)
実際、(ドラえもん最終回同人誌が有名な例だが)著作権の問題で裁判になるケース、キャラクターが政治や宗教に利用されてそのイメージが独り歩きして問題になったケースなど、二次創作に関するトラブルは枚挙に暇がない。実際東方でも、犬走椛が米国大統領選のマスコットにされるといった例もある。
このように、そもそも二次創作を禁止しない(黙認する)というのはそれ自体がリスクになることであり、二次創作とはこういったトラブルと隣り合わせの存在である。本来であれば二次創作は規制する方が安全なものと考えるべきである。
ではなぜそのようなリスクを背負ってまで二次創作を認めているコンテンツがあるのか、言うまでもなく、「それ相応のメリットも存在するから」である。つまり、二次創作とはコンテンツの知名度を広めていく存在でもあり、二次創作を黙認するのはそういった相乗効果を狙ったものである、つまり公式と二次創作者はギブ&テイクの関係と考えるべきなのではないだろうか。
実際先述したように、ZUN氏が二次創作をこれだけ自由にした狙いもそこにあることは間違いない。
つまり、ゆっくり茶番劇が「東方の入口」になりきれていないこの状況は、神主にとっても本末転倒と言わざるを得ないのではないだろうか。
※当記事はあくまで「東方Project」のキャラクターを中心にした動画についての考察になります。東方キャラが全く出てきていない動画に関しては考慮しておりません。ご了承お願いいたします。
その内容を簡単に説明すると、「まず二次創作(ゆっくり茶番劇)をきっかけに東方を知ってもらい、後から深い東方の世界に入ってきてもらおう」というもの。
これについて、実際にゆっくり茶番劇が東方の入口として機能しているかを考えてみたところ、
まず、以前コミュニティで実施したアンケートによると、ゆっくり茶番劇の視聴者の50%以上はゆっくり茶番劇を始めたとしたYouTubeの作品でしか東方に触れていないことが示唆された。(回答者は約180人程度なのでこれが全てではないが)
【追記】
先日、再確認のため同じアンケートをもう一度行ったが、その際に大手動画投稿者の方にそのアンケートを共有していただき、2000以上の票を得ることができた。
その結果、「東方はゆっくり茶番劇でしか見ていない」「茶番劇以外だと幻想万華鏡くらいしか見ない」「あまり見ない」の合計が50%を超えた。
(合計票数が1000を超えたあたりから割合はほぼ変わっていなかったため、この割合はほぼ正しいと見て良い)
つまり彼らの半分以上は「ゆっくり茶番劇」をあくまで「ゆっくり茶番劇」としか見ておらず、東方に興味を持たないまま茶番劇を見ていることになる。
この理由については調査が必要(というより彼らも無自覚にそうしている可能性が高いため調査は極めて困難)だが、動画の内容を考慮すると、「東方ならではの面白さが少なく、どんなキャラでも成り立つようなありきたりな内容であるため、作品を『東方』として見ることができないから」ではないかと推測できる。
実際ゆっくり茶番劇は原作の要素をまるっきり白紙にした恋愛茶番、日常茶番などが一つの主流なジャンルになっており、検索結果のうちはるか氏の立ち絵を使用した茶番劇の半分以上は恋愛ジャンルとなっている。
また、主人公や色変えオリキャラばかりが目立つ「チート系」と呼ばれるものも主流なジャンルであるが、これも既存の東方キャラは一蹴されてしまい活躍の場面が少ないため、彼らにキャラクターの特徴が伝わっていないとも考えられる。
またもう一つの原因として、タイトルに「東方」の文字がないことも挙げられるだろう。実際ゆっくり茶番劇は「ゆっくり茶番劇」というジャンルで浸透しており、「東方茶番劇」などと呼称されることはほぼない。動画を検索しても、タイトルに「東方」と書かれているのは、シリーズ名が原作風に「東方〇〇〇」(「東方+漢字三文字」)になっているもののみで、それ以外に「東方」と書かれているものは本当にごく少数である。
つまり、「ゆっくり茶番劇」はあくまで「ゆっくり茶番劇の入口」でしかなく、「東方の入口」としてはあまり役割を果たせていないことがわかる。
また、「ゆっくり茶番劇は同人誌の代替物、同人誌の動画版である」という主張も目にしたので、これに関しても考えてみた。
私のところに以前、「ゆっくり茶番をきっかけにして東方を知ったが、原作をやったりして東方に詳しくなったらゆっくり茶番が楽しめなくなり、見るのをやめてしまった」「ゆっくり茶番をきっかけにして東方を知ったが、他のいろんな作品を見ると、キャラクターイメージが動画で見たものとかけ離れすぎていてショックを受けた」というコメントが寄せられていた。
ゆっくり茶番劇が「同人誌の代替物」として機能しているのであれば、このような感想が出ることはない。
また、登録者20万人規模のとある方の調査によると、「ゆっくり茶番劇は東方に詳しい人ほど違和感が強く、楽しみづらい」ことも判明している。
東方は原作未プレイユーザーの割合が多いことでも知られ、二次創作を中心に発展していったコンテンツであることは言うまでもないため、当然「楽しめない」と答えたユーザーも、二次創作を嗜んでいるはずである(そもそも原作しかプレイしないのならアンケートを目にするはずもない)。
これらを考慮すると、ゆっくり茶番劇は、他の東方二次創作(同人誌や手書き劇場など)の内容と比べても特に異質なものであると言わざるを得ないだろう。
理由については、単に動画の絵面などの面も考慮したが、同じような構図(立ち絵+ウィンドウ+ボイス)という構図を持つ東方キャノンボールや東方LWはダウンロード数が7桁を超えるほど浸透しているため、動画の絵面が原因とは考えづらく、また「ボイスが嫌い」という可能性も考えたが、東方人気投票でのアンケート結果では、東方を知ったきっかけというテーマに対して「YouTubeなどの動画サイト」「ニコニコ動画」「2ちゃんねるをはじめとした掲示板」の合計が50%を超えているため、東方が浸透した一つのきっかけとも言えるゆっくり及びそれに使われる機会音声が原因とは考えにくい。
つまり、彼らがゆっくり茶番劇に迎合できない理由はその内容にあると言ってよいだろう。
(これは個人的な経験というか観測だが、実際多くのゆっくり茶番劇のように原作における要素やキャラクターの属性、特徴を全て白紙にしている同人誌は確かにほとんど見たことがない)
現状ゆっくり茶番劇は「東方を好きになるきっかけにはなりにくく、逆に東方に興味を持った人は徐々に違和感を感じて離れてしまう」ものであると言えるのではないだろうか。
(時期でフィルターをかけて検索した際にわかるここ数年のゆっくり茶番劇の再生数の低下もこれを裏付けている)
東方は数あるコンテンツの中でも特に二次創作に関して寛容ということで有名だが、そもそもZUN氏がこれだけ二次創作を自由にしたことに対して「東方は同人コンテンツであるため原作だけではコンテンツを展開しにくく、二次創作を第2の宣伝手段とした」と理由付けをしている。
(参照:https://touhougarakuta.com/index_interview/zun_long_interview/)
実際、(ドラえもん最終回同人誌が有名な例だが)著作権の問題で裁判になるケース、キャラクターが政治や宗教に利用されてそのイメージが独り歩きして問題になったケースなど、二次創作に関するトラブルは枚挙に暇がない。実際東方でも、犬走椛が米国大統領選のマスコットにされるといった例もある。
このように、そもそも二次創作を禁止しない(黙認する)というのはそれ自体がリスクになることであり、二次創作とはこういったトラブルと隣り合わせの存在である。本来であれば二次創作は規制する方が安全なものと考えるべきである。
ではなぜそのようなリスクを背負ってまで二次創作を認めているコンテンツがあるのか、言うまでもなく、「それ相応のメリットも存在するから」である。つまり、二次創作とはコンテンツの知名度を広めていく存在でもあり、二次創作を黙認するのはそういった相乗効果を狙ったものである、つまり公式と二次創作者はギブ&テイクの関係と考えるべきなのではないだろうか。
実際先述したように、ZUN氏が二次創作をこれだけ自由にした狙いもそこにあることは間違いない。
つまり、ゆっくり茶番劇が「東方の入口」になりきれていないこの状況は、神主にとっても本末転倒と言わざるを得ないのではないだろうか。
※当記事はあくまで「東方Project」のキャラクターを中心にした動画についての考察になります。東方キャラが全く出てきていない動画に関しては考慮しておりません。ご了承お願いいたします。
今のゆっくり茶番劇界に対する私の見解
2021年4月11日 動画 コメント (1)
ここ最近、東方の「ゆっくり茶番劇」の動画内容に関しての騒ぎを耳にする方も多いと思う。
そもそもの発端は二年程前に、ゆっくり茶番者の某N氏と某K氏が結託して、複数のゆっくり動画投稿者を動画上で名指して批判したことから始まったのだが、数週間前に3人ほどの過激なユーザーがTwitterでゆっくりに関するツイートを引用して批判することを繰り返すという事件が起こったことで、この議論はさらに加熱した。
彼らの言い分としては
・今のゆっくり茶番はキャラクターの名前をとってつけただけの内容であり、東方要素が皆無である
・しかも動画を投稿している人たちの多くは東方の知識がほとんどない(キャラクターの名前程度しか)
・そのため、キャラクター像が原作や主流な表現から大きくかけ離れており、視聴者に東方の知識が伝わらない、どころか間違った認識を与えてしまう
・(現在はかなり数が減ったものの)オリジナルキャラクターが無双して既存の東方キャラが引き立て役になってしまう作品が横行しており、東方キャラに対する侮辱ともとれる
といったところである。
この件に関して、(完全にとはいかないが)できる限り私的な価値観を排除した上で客観的に分析し、見解を述べたい。
まず、結論から言うと、いずれこうなるのは必然だったのではないかと推測している。
この議論は某N氏と某K氏の行動から始まったとさっき書いたが、元々同じような感想を持っていた人はいたと思われる(実際インターネットで検索すれば彼らと同じような感想を発信しているものは見られるし、直接私にそう聞かせてくれた方もいた)。
実際同人誌や、pixiv、ニコニコに投稿されているものやMMD作品と比べると、ゆっくり茶番劇の内容はかなり異質であり、前者は程度の差はあれどキャラクターの特徴や傾向などを作品に生かしているものが多いのに対し、後者は「キャラクターをとってつけただけ」の内容がかなり大半を占めている。
(もちろん前者の作品にもそのような内容の作品は存在するが、これらの特徴に関してはとりわけゆっくり茶番が突出している)
下の1枚目の画像はTwitterで偶然見かけたツイート(名前とアイコンは伏せておく)なのだが、そのことをうまく指摘している。
つまり、こういったキャラの名前だけの作品は、東方ファンの目には「東方の人気を利用して東方のキャラの名前だけを借りている」という風に映ってしまうこともあるということを示している(動画を作った本人にはそういったつもりはないのかもしれないが)。
こういった二次創作(いわゆる原作未履修二次創作)は東方に限らずあらゆるコンテンツで問題視されるのだが、その理由としては
・公式にお金を落とす気はないのにキャラのビジュアルなどを消費していることが原作ファンの怒りを買っている
・二次創作をするほど作品に愛があるのになぜ原典に興味が湧かないのか理解できない
というものがある(Twitterより)
またこれらに関して触れている記事も多く存在するので、目を通していただきたい。
https://manga-gurashi.blogspot.com/2020/01/blog-post_18.html#toc_headline_3
https://magusite.com/unplayed-secondarycreation-danger
https://note.com/wanabeoba/n/n9745cbff3f15
東方に関しては、「同人作品のためソフトが手に入りにくく、しかもプレイにPCが必要なため原作は敷居が高いので、原作をプレイできなくても仕方ない」と言われることが多く、未プレイに関しては比較的寛容である。
(実際ZUN氏もそのことは承知しており、「できないなら無理に原作をプレイする必要はない」と公言している)
しかし、その代わりに「原作ができないのは仕方ないとして、せめてwikiや解説動画などで調べるなどして最低限の知識はつけてほしい」と主張する層は存在する。
それだけでなく、彼らが動画内容を「面白くない」と感じているのも理由の一つである。
(これにはきちんとソースがあり、過去に登録者20万人規模の動画投稿者がアンケートを実施したところ、「ゆっくり茶番は東方の知識が乏しい者は問題なく楽しめるが、東方にある程度詳しい者は違和感が強くて楽しむことができない傾向がある」という結論が出たとのこと。また実際私のコメント欄にも、「もともとゆっくり茶番は好きだったが、原作をやるようになった途端違和感が強くて楽しめなくなり、見るのをやめてしまった」とのコメントを寄せてくださった方がいた)
https://twitter.com/Tamay_official/status/1376868144120176640?s=20
さらに言うと、東方キャラには「色変え」という文化が存在する。
既存のキャラの立ち絵の色だけを変え、元のキャラとは無関係なオリジナルキャラクターを作成し、独自の名前や設定を付随するというものである。
(立ち絵の規約には改変はしても問題ないと書かれているのだが、モラルの面でこれを否定するユーザーは少なからずいる。当然自作発言をしたら規約違反なのでモラル関係なくアウトである)
これは(他のコンテンツに全くないというわけではないが)東方の、もっと言うならゆっくり茶番界隈独特の文化であり、他に類を見ない。
ゆっくり茶番を批判する層は、こういった文化に対して「キャラクターをフリー素材にしている」「元のキャラクターを蔑ろにしている」という主張をしている。
先日、とあるTwitterのユーザーがこのような発信をした。
https://twitter.com/maaku2nohaka/status/1381831162809573380?s=20
東方の色変えに関するツイート(若干本人の価値観も入っているかもしれないが)
これに対するリプや引用を見てみると、色変えに対する否定的なコメントが多数寄せられている。もちろんこれが全てではないし正確な数とは言えないが、少なくともこのツイートに対する反応では否定的な意見が多数である(どちらかというとツイート主が否定的なニュアンスでこのツイートを発信しているので、当然と言えば当然かもしれないが)。
※これに関するアンケートや有力な情報などをお持ちの方、提供してくださると有難いです。
念を押すようだがこれが世の中の意見の全てではないので多数派かどうかは不明だが、少なくとも色変えに対して否定的な認識を持つ層は少なからず存在するのは事実である。
ゆっくりに対して否定的な層がゆっくり茶番を批判する理由は大きく分けるとこの二つにある。
この二つに関してゆっくり茶番劇界隈で問題になっており、「今までのような動画が作りにくくなってしまった」という意見も耳にするようになった。
これに関する私の見解は、
むしろ今までが異常だったのではないかというものである。
実際、先述したような
「キャラの名前をとってつけただけの二次創作」
「キャラの名前程度しか知識がない状態で描かれた二次創作」
は、東方に限らずどのコンテンツでも基本的に嫌われる傾向があるらしく、ポケモン/遊戯王/fate/ディズニーなど、他の多数の作品でも同じような議論で揉めた例がある。
(このような主張を所謂「オリジナルでやれ」論と呼ぶらしい)
ではなぜゆっくり茶番が今までそこまで問題視されなかったかというと、先述したアンケート結果が示すように、「視聴者の大半は東方の知識が乏しい層だった」からであり、今まで動画を見ていた視聴者は特に内容に違和感を感じることがなかった。
(実際私のチャンネルでもアンケートをとり、200人弱の方々が回答してくださったが、視聴者の9割以上は即売会に行ったことがなく、6割はゆっくり茶番劇でしか東方を見ていない)
しかし、そこに外部の東方ファン(同人誌やpixivなどで東方の作品を消費しているユーザー)の意見が加わったことで、このような議論になったと考えられる。
つまり、今までのゆっくり茶番劇が許されていたのがむしろ特殊だったのではないか。
いずれこのような事態になるのは必然だったのではないか。
「茶番劇界隈に外部の価値観を持ち込まないでほしい」と考える方もいらっしゃるかもしれない。
しかし、ゆっくり茶番劇も(少なくとも東方のキャラが登場しているものに関しては)立派な東方の作品であり、東方ファンの価値観で評価されるのは当然と考えるべきではないだろうか。
そもそも「東方」の作品である以上東方ファンなら誰でも見る可能性があり、彼らの「外部の」東方ファンと呼ぶこと自体が誤りではないだろうか。
結論としては、
・二次創作界隈では「二次創作をするなら原作を購入してプレイする、それが不可能ならばインターネットや書籍でコンテンツについて学び、知識をつけるのはマナーである」という風潮は東方に限らず二次創作界隈全体に存在する
・キャラクターの名前をとってつけただけの作品はコアなファンが楽しみにくい
・色変えオリキャラを嫌う東方ファンは一定数いる
これらを事実であると受け止めることは今の我々にとって必要なのではないか?
今までは視聴者の属性の関係で、ゆっくり茶番劇界隈は一般的な東方ファン、二次創作ファンの価値観から切り離されてきたが、いろんな東方ファンの目に触れる機会が増えれば、当然彼らの視点で作品が評価される。
そうなりかけた結果が現在の状況だと言ってもいい。
また、先述したアンケート結果が示すように、「それまでゆっくり茶番を楽しんでいたが、東方の知識をつけた途端楽しめなくなった」という視聴者も存在するため、これから先視聴者が東方の知識を増やしていけば、離れていく視聴者が出ることも考えられる。
もしこのジャンルを長く存続させたいのであれば、我々が努力することを視野に入れるという選択肢も存在するのではないだろうか。
また、この界隈は視聴者人口が少なく、再生数は多くて20万弱だと言われている
はっきりとした統計はないが、4年ほど前までは再生数が200万を超えるものがあり、2年前は100万越えも存在したが、去年~今年で検索したところ、7桁どころか再生数が10万を超える動画はたったの数本であった。
もちろん、今まで通り東方から切り離された状態で、この界隈の中だけで創作や視聴を楽しむというのも一つの手段かもしれない。
しかし、これから先この右肩下がりな状況から脱却するために、コアな東方ファンもターゲットに据えることを視野に入れるという選択肢も我々にはあるのではないだろうか。
長い時間は必要になるだろうが、彼らを迎え入れることによって、このジャンルはより賑やかになるのではないだろうか。
そもそもの発端は二年程前に、ゆっくり茶番者の某N氏と某K氏が結託して、複数のゆっくり動画投稿者を動画上で名指して批判したことから始まったのだが、数週間前に3人ほどの過激なユーザーがTwitterでゆっくりに関するツイートを引用して批判することを繰り返すという事件が起こったことで、この議論はさらに加熱した。
彼らの言い分としては
・今のゆっくり茶番はキャラクターの名前をとってつけただけの内容であり、東方要素が皆無である
・しかも動画を投稿している人たちの多くは東方の知識がほとんどない(キャラクターの名前程度しか)
・そのため、キャラクター像が原作や主流な表現から大きくかけ離れており、視聴者に東方の知識が伝わらない、どころか間違った認識を与えてしまう
・(現在はかなり数が減ったものの)オリジナルキャラクターが無双して既存の東方キャラが引き立て役になってしまう作品が横行しており、東方キャラに対する侮辱ともとれる
といったところである。
この件に関して、(完全にとはいかないが)できる限り私的な価値観を排除した上で客観的に分析し、見解を述べたい。
まず、結論から言うと、いずれこうなるのは必然だったのではないかと推測している。
この議論は某N氏と某K氏の行動から始まったとさっき書いたが、元々同じような感想を持っていた人はいたと思われる(実際インターネットで検索すれば彼らと同じような感想を発信しているものは見られるし、直接私にそう聞かせてくれた方もいた)。
実際同人誌や、pixiv、ニコニコに投稿されているものやMMD作品と比べると、ゆっくり茶番劇の内容はかなり異質であり、前者は程度の差はあれどキャラクターの特徴や傾向などを作品に生かしているものが多いのに対し、後者は「キャラクターをとってつけただけ」の内容がかなり大半を占めている。
(もちろん前者の作品にもそのような内容の作品は存在するが、これらの特徴に関してはとりわけゆっくり茶番が突出している)
下の1枚目の画像はTwitterで偶然見かけたツイート(名前とアイコンは伏せておく)なのだが、そのことをうまく指摘している。
つまり、こういったキャラの名前だけの作品は、東方ファンの目には「東方の人気を利用して東方のキャラの名前だけを借りている」という風に映ってしまうこともあるということを示している(動画を作った本人にはそういったつもりはないのかもしれないが)。
こういった二次創作(いわゆる原作未履修二次創作)は東方に限らずあらゆるコンテンツで問題視されるのだが、その理由としては
・公式にお金を落とす気はないのにキャラのビジュアルなどを消費していることが原作ファンの怒りを買っている
・二次創作をするほど作品に愛があるのになぜ原典に興味が湧かないのか理解できない
というものがある(Twitterより)
またこれらに関して触れている記事も多く存在するので、目を通していただきたい。
https://manga-gurashi.blogspot.com/2020/01/blog-post_18.html#toc_headline_3
https://magusite.com/unplayed-secondarycreation-danger
https://note.com/wanabeoba/n/n9745cbff3f15
東方に関しては、「同人作品のためソフトが手に入りにくく、しかもプレイにPCが必要なため原作は敷居が高いので、原作をプレイできなくても仕方ない」と言われることが多く、未プレイに関しては比較的寛容である。
(実際ZUN氏もそのことは承知しており、「できないなら無理に原作をプレイする必要はない」と公言している)
しかし、その代わりに「原作ができないのは仕方ないとして、せめてwikiや解説動画などで調べるなどして最低限の知識はつけてほしい」と主張する層は存在する。
それだけでなく、彼らが動画内容を「面白くない」と感じているのも理由の一つである。
(これにはきちんとソースがあり、過去に登録者20万人規模の動画投稿者がアンケートを実施したところ、「ゆっくり茶番は東方の知識が乏しい者は問題なく楽しめるが、東方にある程度詳しい者は違和感が強くて楽しむことができない傾向がある」という結論が出たとのこと。また実際私のコメント欄にも、「もともとゆっくり茶番は好きだったが、原作をやるようになった途端違和感が強くて楽しめなくなり、見るのをやめてしまった」とのコメントを寄せてくださった方がいた)
https://twitter.com/Tamay_official/status/1376868144120176640?s=20
さらに言うと、東方キャラには「色変え」という文化が存在する。
既存のキャラの立ち絵の色だけを変え、元のキャラとは無関係なオリジナルキャラクターを作成し、独自の名前や設定を付随するというものである。
(立ち絵の規約には改変はしても問題ないと書かれているのだが、モラルの面でこれを否定するユーザーは少なからずいる。当然自作発言をしたら規約違反なのでモラル関係なくアウトである)
これは(他のコンテンツに全くないというわけではないが)東方の、もっと言うならゆっくり茶番界隈独特の文化であり、他に類を見ない。
ゆっくり茶番を批判する層は、こういった文化に対して「キャラクターをフリー素材にしている」「元のキャラクターを蔑ろにしている」という主張をしている。
先日、とあるTwitterのユーザーがこのような発信をした。
https://twitter.com/maaku2nohaka/status/1381831162809573380?s=20
東方の色変えに関するツイート(若干本人の価値観も入っているかもしれないが)
これに対するリプや引用を見てみると、色変えに対する否定的なコメントが多数寄せられている。もちろんこれが全てではないし正確な数とは言えないが、少なくともこのツイートに対する反応では否定的な意見が多数である(どちらかというとツイート主が否定的なニュアンスでこのツイートを発信しているので、当然と言えば当然かもしれないが)。
※これに関するアンケートや有力な情報などをお持ちの方、提供してくださると有難いです。
念を押すようだがこれが世の中の意見の全てではないので多数派かどうかは不明だが、少なくとも色変えに対して否定的な認識を持つ層は少なからず存在するのは事実である。
ゆっくりに対して否定的な層がゆっくり茶番を批判する理由は大きく分けるとこの二つにある。
この二つに関してゆっくり茶番劇界隈で問題になっており、「今までのような動画が作りにくくなってしまった」という意見も耳にするようになった。
これに関する私の見解は、
むしろ今までが異常だったのではないかというものである。
実際、先述したような
「キャラの名前をとってつけただけの二次創作」
「キャラの名前程度しか知識がない状態で描かれた二次創作」
は、東方に限らずどのコンテンツでも基本的に嫌われる傾向があるらしく、ポケモン/遊戯王/fate/ディズニーなど、他の多数の作品でも同じような議論で揉めた例がある。
(このような主張を所謂「オリジナルでやれ」論と呼ぶらしい)
ではなぜゆっくり茶番が今までそこまで問題視されなかったかというと、先述したアンケート結果が示すように、「視聴者の大半は東方の知識が乏しい層だった」からであり、今まで動画を見ていた視聴者は特に内容に違和感を感じることがなかった。
(実際私のチャンネルでもアンケートをとり、200人弱の方々が回答してくださったが、視聴者の9割以上は即売会に行ったことがなく、6割はゆっくり茶番劇でしか東方を見ていない)
しかし、そこに外部の東方ファン(同人誌やpixivなどで東方の作品を消費しているユーザー)の意見が加わったことで、このような議論になったと考えられる。
つまり、今までのゆっくり茶番劇が許されていたのがむしろ特殊だったのではないか。
いずれこのような事態になるのは必然だったのではないか。
「茶番劇界隈に外部の価値観を持ち込まないでほしい」と考える方もいらっしゃるかもしれない。
しかし、ゆっくり茶番劇も(少なくとも東方のキャラが登場しているものに関しては)立派な東方の作品であり、東方ファンの価値観で評価されるのは当然と考えるべきではないだろうか。
そもそも「東方」の作品である以上東方ファンなら誰でも見る可能性があり、彼らの「外部の」東方ファンと呼ぶこと自体が誤りではないだろうか。
結論としては、
・二次創作界隈では「二次創作をするなら原作を購入してプレイする、それが不可能ならばインターネットや書籍でコンテンツについて学び、知識をつけるのはマナーである」という風潮は東方に限らず二次創作界隈全体に存在する
・キャラクターの名前をとってつけただけの作品はコアなファンが楽しみにくい
・色変えオリキャラを嫌う東方ファンは一定数いる
これらを事実であると受け止めることは今の我々にとって必要なのではないか?
今までは視聴者の属性の関係で、ゆっくり茶番劇界隈は一般的な東方ファン、二次創作ファンの価値観から切り離されてきたが、いろんな東方ファンの目に触れる機会が増えれば、当然彼らの視点で作品が評価される。
そうなりかけた結果が現在の状況だと言ってもいい。
また、先述したアンケート結果が示すように、「それまでゆっくり茶番を楽しんでいたが、東方の知識をつけた途端楽しめなくなった」という視聴者も存在するため、これから先視聴者が東方の知識を増やしていけば、離れていく視聴者が出ることも考えられる。
もしこのジャンルを長く存続させたいのであれば、我々が努力することを視野に入れるという選択肢も存在するのではないだろうか。
また、この界隈は視聴者人口が少なく、再生数は多くて20万弱だと言われている
はっきりとした統計はないが、4年ほど前までは再生数が200万を超えるものがあり、2年前は100万越えも存在したが、去年~今年で検索したところ、7桁どころか再生数が10万を超える動画はたったの数本であった。
もちろん、今まで通り東方から切り離された状態で、この界隈の中だけで創作や視聴を楽しむというのも一つの手段かもしれない。
しかし、これから先この右肩下がりな状況から脱却するために、コアな東方ファンもターゲットに据えることを視野に入れるという選択肢も我々にはあるのではないだろうか。
長い時間は必要になるだろうが、彼らを迎え入れることによって、このジャンルはより賑やかになるのではないだろうか。
私が「ゆっくり茶番劇」について思うこと。
2021年3月8日 動画最近とある方から二次創作の意義などについて問われました。
その時は私は曖昧な返事しかできなかったのだが、今回は私がYouTubeに投稿されている「ゆっくり茶番劇」に対して思うことを綴ろうと思います。
なお、私個人の感想でしかないことを考慮した上で読んでいただければ幸いです。
まず結論として、YouTubeに投稿されている「ゆっくり茶番劇」の7割に対して私が持つ感想は、
「オリジナルキャラでやった方がいい」
です。
同じような主張をしている方を何度か見たことがあるので、こういった感想を持っている方も、この記事を読んでいる方の中にいるかもしれません。
同時に、こういった意見をあまりよく思わない方もいらっしゃると思います。
両者の方々のために、私がこの主張をする理由についてお話します。
まず、私の持論ですが、「二次創作」の醍醐味とは、
既存のキャラクターの性格や個性、設定を、別の世界観/状況設定/視点でどう生かすかを楽しむことだと思っています。
東方で言うなら、同人誌などでよくあるのが「霊夢や魔理沙が能力のない普通の女子高生だったら」という設定です。幻想郷のように能力こそ使わないものの、キャラクター同士の関係性や性格が反映され、それによってリアルの世界でいろんなイベントに繋がっています。原作で関連性の深いキャラがセットで登場し、原作と似たような騒動をリアルの世界で引き起こすシーンもしばしば見受けられます。
しかし、ゆっくり茶番の場合、キャラクターの特徴が名前と外見程度しか残っておらず、(状況設定やセリフなどを一切変えず)キャラクターの名前と外見だけを別のキャラクターに置き換えても差し支えないものが非常に多いです。
私が見た印象だと7割くらいはそういった内容でした。
しかし、これだけだと「それならもう別の作品としてみればいいじゃないか」と思う方も多いと思います。
ではなぜこういった作品に対して「オリジナルでやった方がいい」とまで主張する必要があるのか。
それはキャラの特徴や個性を知る楽しみがないからです。
これも私の持論でしかないですが、一次創作の醍醐味の一つはキャラクターの名前や特徴、性格や個性を読み進めながら知っていくことだと思っています。
一次創作であれば登場キャラは全員知らないキャラですから、新しいキャラが出るたびに「このキャラはこんな名前で、こんな性格なのか」「この子はどんな個性を持っているんだろう」と予想し、深く読み込んでいく楽しさがあります。
しかし、ゆっくり茶番劇は登場キャラが既存のキャラ。キャラの外見や特徴などは頭に入っている状態です。
登場キャラが既存のキャラなので、キャラのデザインを見て楽しんだり、特徴や傾向を読み込んでいく楽しみがありません。
かといって、その既に頭に入っている性格や特徴を楽しもうにも、それすら失われてしまっているので楽しむことができません。
以前「オリジナルでやれ」という意見に対する反論を綴った記事を見かけましたが、その記事を書いた方に、この意見の裏にはこういった理由が存在するということを知っていただけると嬉しいなと思いました。知った上で同じように反論するのならそれ以上何も言うつもりはありませんが。
つまるところ
二次創作の醍醐味である、キャラのもともと持っている属性を別視点や別世界で生かす楽しみがなく、一次創作の醍醐味である、新しいキャラの特徴や個性を研究していく楽しみがない、
それが私から見たゆっくり茶番劇です。
誰でも務まるような役柄を既存のキャラにやらせてしまっては、キャラの属性を享受することができないというのが結論です。
既存のキャラを使うなら、「このキャラがこの世界にいたら…」「原作のこのシーンの裏側では…」といった状況設定にして、そのキャラの持っている属性をストーリーや細部のシーンに生かしてこそ二次創作は面白くなるのではないか?と思っています。
それらがないなら、いっそデザインも名前も完全オリジナルのキャラが出てきた方が新鮮味がありますし、キャラの個性を知り、研究していく楽しみも生まれるのではないでしょうか。
ストーリーとしては面白かったとしても、キャラの属性を楽しむという側面を失っているため、見ていて薄っぺらく感じてしまう、というのが私の感想になります。
その時は私は曖昧な返事しかできなかったのだが、今回は私がYouTubeに投稿されている「ゆっくり茶番劇」に対して思うことを綴ろうと思います。
なお、私個人の感想でしかないことを考慮した上で読んでいただければ幸いです。
まず結論として、YouTubeに投稿されている「ゆっくり茶番劇」の7割に対して私が持つ感想は、
「オリジナルキャラでやった方がいい」
です。
同じような主張をしている方を何度か見たことがあるので、こういった感想を持っている方も、この記事を読んでいる方の中にいるかもしれません。
同時に、こういった意見をあまりよく思わない方もいらっしゃると思います。
両者の方々のために、私がこの主張をする理由についてお話します。
まず、私の持論ですが、「二次創作」の醍醐味とは、
既存のキャラクターの性格や個性、設定を、別の世界観/状況設定/視点でどう生かすかを楽しむことだと思っています。
東方で言うなら、同人誌などでよくあるのが「霊夢や魔理沙が能力のない普通の女子高生だったら」という設定です。幻想郷のように能力こそ使わないものの、キャラクター同士の関係性や性格が反映され、それによってリアルの世界でいろんなイベントに繋がっています。原作で関連性の深いキャラがセットで登場し、原作と似たような騒動をリアルの世界で引き起こすシーンもしばしば見受けられます。
しかし、ゆっくり茶番の場合、キャラクターの特徴が名前と外見程度しか残っておらず、(状況設定やセリフなどを一切変えず)キャラクターの名前と外見だけを別のキャラクターに置き換えても差し支えないものが非常に多いです。
私が見た印象だと7割くらいはそういった内容でした。
しかし、これだけだと「それならもう別の作品としてみればいいじゃないか」と思う方も多いと思います。
ではなぜこういった作品に対して「オリジナルでやった方がいい」とまで主張する必要があるのか。
それはキャラの特徴や個性を知る楽しみがないからです。
これも私の持論でしかないですが、一次創作の醍醐味の一つはキャラクターの名前や特徴、性格や個性を読み進めながら知っていくことだと思っています。
一次創作であれば登場キャラは全員知らないキャラですから、新しいキャラが出るたびに「このキャラはこんな名前で、こんな性格なのか」「この子はどんな個性を持っているんだろう」と予想し、深く読み込んでいく楽しさがあります。
しかし、ゆっくり茶番劇は登場キャラが既存のキャラ。キャラの外見や特徴などは頭に入っている状態です。
登場キャラが既存のキャラなので、キャラのデザインを見て楽しんだり、特徴や傾向を読み込んでいく楽しみがありません。
かといって、その既に頭に入っている性格や特徴を楽しもうにも、それすら失われてしまっているので楽しむことができません。
以前「オリジナルでやれ」という意見に対する反論を綴った記事を見かけましたが、その記事を書いた方に、この意見の裏にはこういった理由が存在するということを知っていただけると嬉しいなと思いました。知った上で同じように反論するのならそれ以上何も言うつもりはありませんが。
つまるところ
二次創作の醍醐味である、キャラのもともと持っている属性を別視点や別世界で生かす楽しみがなく、一次創作の醍醐味である、新しいキャラの特徴や個性を研究していく楽しみがない、
それが私から見たゆっくり茶番劇です。
誰でも務まるような役柄を既存のキャラにやらせてしまっては、キャラの属性を享受することができないというのが結論です。
既存のキャラを使うなら、「このキャラがこの世界にいたら…」「原作のこのシーンの裏側では…」といった状況設定にして、そのキャラの持っている属性をストーリーや細部のシーンに生かしてこそ二次創作は面白くなるのではないか?と思っています。
それらがないなら、いっそデザインも名前も完全オリジナルのキャラが出てきた方が新鮮味がありますし、キャラの個性を知り、研究していく楽しみも生まれるのではないでしょうか。
ストーリーとしては面白かったとしても、キャラの属性を楽しむという側面を失っているため、見ていて薄っぺらく感じてしまう、というのが私の感想になります。